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詳細情報 |
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中ノ坊と ひ 又二ツ岩禪坊ともいふ 今の御影堂の地に在り。二を |
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東ノ新坊といひ 又松下禪坊といふ 今の大鐘樓の東北に在り。三 |
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を西ノ舊坊といひ、 又淸水禪坊ともいふ 今の三門西南の地に在 |
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り。中に於て大師は自ら中ノ坊に住し、東西の二坊 |
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を門弟の宿舍としたまへり。然るに建永二年大師 |
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七十五歳 事に坐して讚岐國に配せられ、四年の後恩免の |
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宣旨を賜はりて、建曆元年十一月歸洛ありし比には、 |
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吉水の諸坊既に荒廢に屬せしかは、靑蓮院慈圓僧正 |
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後ち慈鎭和尚と諡す の沙汰として、大谷の山上南禪院 慈惠大師草創 と號 |
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する坊舍を寄せ、以て大師の依所に充てたまへり。即 |
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ち現今勢至堂の地是なり。大師此禪坊に於て、其翌 |
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建曆二年正月二十五日八十歳にして往生の素懷を遂 |
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けたまひしかは、遺弟等住坊の東崖上に葬り、廟堂 |
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を莊嚴し、洒掃供養恰も在ますか如く、貴賤上下常 |
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に群集して知恩報德の誠を致せり。 |
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然るに滅後十六歳 後堀河天皇嘉祿三年六月、山門 |
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の衆徒、其興盛を嫉み、朝廷に嗷訴し、使を遣はし |
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て坊舍を破却し、廟塔を發かんとす。同法遺弟竊か |
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に遺骸を嵯峨に移し翌年之を粟生野に荼毘したてま |
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つる。 |
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其後勢觀房源智上人深く靈蹟の廢滅を歎き、物情の |
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沈靜するを俟ち、 四條天皇文曆元年同法と力を協 |
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はせ、朝廷に奏して大谷の舊地を復し、佛殿を建て |
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影堂を營み、僧坊門廡一に寺院の制に則とり、始め |
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て知恩院大谷寺と號し、大師を仰いて開山第一世と |
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爲す。 天皇嘉稱して勅願所となし。「華頂山」「知 |
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恩敎院」「大谷寺」の勅額を賜ひしかは、之を總門影 |
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堂佛殿の三所に揭け、永へに專修念佛の本處、大師 |
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入寂の靈跡を標し天下の道俗をして其歸嚮する所を |
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知らしむ。之を本山開創の縁由とす。 |
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第二 開祖略傳 |
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開祖大師諱は源空、法然房と號す。父は美作國久米 |
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の押領使漆時國、母は秦氏なり。父母子なきことを |
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歎きて佛神に祈り、終に 崇德天皇長承二年 皇紀一七九三 |