第19巻 169P 華頂誌要 華頂山編

No. 詳細情報
a01 中ノ坊と判読不能割注又二ツ岩禪坊ともいふ割注今の御影堂の地に在り。二を
a02 東ノ新坊といひ割注又松下禪坊といふ割注今の大鐘樓の東北に在り。三
a03 を西ノ舊坊といひ、割注又淸水禪坊ともいふ割注今の三門西南の地に在
a04 り。中に於て大師は自ら中ノ坊に住し、東西の二坊
a05 を門弟の宿舍としたまへり。然るに建永二年大師
a06 割注七十五歳割注事に坐して讚岐國に配せられ、四年の後恩免の
a07 宣旨を賜はりて、建曆元年十一月歸洛ありし比には、
a08 吉水の諸坊既に荒廢に屬せしかは、靑蓮院慈圓僧正
a09 割注後ち慈鎭和尚と諡す割注の沙汰として、大谷の山上南禪院割注慈惠大師草創割注と號
a10 する坊舍を寄せ、以て大師の依所に充てたまへり。即
a11 ち現今勢至堂の地是なり。大師此禪坊に於て、其翌
a12 建曆二年正月二十五日八十歳にして往生の素懷を遂
a13 けたまひしかは、遺弟等住坊の東崖上に葬り、廟堂
a14 を莊嚴し、洒掃供養恰も在ますか如く、貴賤上下常
a15 に群集して知恩報德の誠を致せり。
a16 然るに滅後十六歳 後堀河天皇嘉祿三年六月、山門
a17 の衆徒、其興盛を嫉み、朝廷に嗷訴し、使を遣はし
b01 て坊舍を破却し、廟塔を發かんとす。同法遺弟竊か
b02 に遺骸を嵯峨に移し翌年之を粟生野に荼毘したてま
b03 つる。
b04 其後勢觀房源智上人深く靈蹟の廢滅を歎き、物情の
b05 沈靜するを俟ち、 四條天皇文曆元年同法と力を協
b06 はせ、朝廷に奏して大谷の舊地を復し、佛殿を建て
b07 影堂を營み、僧坊門廡一に寺院の制に則とり、始め
b08 て知恩院大谷寺と號し、大師を仰いて開山第一世と
b09 爲す。 天皇嘉稱して勅願所となし。「華頂山」「知
b10 恩敎院」「大谷寺」の勅額を賜ひしかは、之を總門影
b11 堂佛殿の三所に揭け、永へに專修念佛の本處、大師
b12 入寂の靈跡を標し天下の道俗をして其歸嚮する所を
b13 知らしむ。之を本山開創の縁由とす。
b14 第二 開祖略傳
b15 開祖大師諱は源空、法然房と號す。父は美作國久米
b16 の押領使漆時國、母は秦氏なり。父母子なきことを
b17 歎きて佛神に祈り、終に 崇德天皇長承二年割注皇紀一七九三割注